稚内市大字抜海村: 2010年5月アーカイブ

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過去の時間が建物内部に充満している番屋でした。






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350年ほど昔、道南の松前藩領内に始まった日本人の鰊漁は、やがて先住民族アイヌの土地に侵出し、次第に北海道の西海岸を北上して漁場を拡大していきました。最盛期には建網漁(建網ひとチーム約30人の漁夫が3ヶ月間番屋で寝泊まりする大規模な漁法)経営者が3,500名、刺網漁家が25、000名、必要とされる漁夫は10万人にもなったそうです。

こんな大掛かりにやっていれば無尽蔵といわれた鰊でも絶えるに決まっています。「資源は子孫にまで持続させるもの」といった内地では当たり前のはずの気遣いが、アイヌの人たちの土地には不要だったのです。

案の定、明治30年頃から不漁を繰り返すようになります。それでも一攫千金の夢を棄て切れない網元たちは、巨額の資金を毎年賭け続けたのですが、昭和30年あたりで全員力尽きました。



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漁夫たちの寝室となっていた二階の部屋。正面の壁に落書きがたくさんありました。一般的に漁夫たちの寝室は、部屋の周囲に設けられた二段ベッドの蚕棚式になっていました。この番屋では床に寝具を敷いて自分の居場所を確保していたようです。



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